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【公式】スバル インプレッサをつくる!で学ぶ

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  2. 2018/12/26 18:12
    ID : 10870

    [削除済み]

    12/26

    皆さん、こんにちは。#スバコミ事務局です。
    今回は、Vol.94「ヘッドランプLEDを取り付ける」と95「ボンネットエアインテークを組み立てる」に挑戦しました。
    ①左右のヘッドランプにLEDライトを取り付け、リード線をはわせていきます。
    IMG_4319.jpg
    ②エアインテークダクトにエアインテークグリルを取り付けます。
    IMG_4318.jpg

    今週はここまで。
    来週もよろしくおねがいします。

    <スバルの歴史を学ぶ STI⑦>
    WRCへの挑戦!
    レガシィで10万km世界速度記録を達成したSTIは、次なる目標としてWRC(世界ラリー選手権)への挑戦を決定。当時の社長久世隆一郎氏はサファリラリーへ趣き、パートナーを探し始めます。
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    WRC参戦へ向けてプロドライブにコンタクト
    10万km世界速度記録を樹立したSTIは、次の段階としてWRCへの挑戦を決定します。世界速度記録達成は単発のイベントに過ぎず、レガシィのセールスを考えると定期的な話題が必要でした。
    社長の久世隆一郎氏は1989年3月末、ケニアで行われたサファリラリーを視察していました。久世氏はSTIのテクニカルパートナーとなるファクトリーを求めて情報収集を行ない、その会場でWRCイベントのひとつであるRSCラリーで役員をつとめていたジョナサン・アッシュマンからイギリスのコンストラクターを推薦されます。それが1990年よりスバルラリーチームヨーロッパ(SRTE)として車両開発を担うことになる「プロドライブ」でした。
    0100s.jpg


  3. 2018/12/30 12:33
    ID : 10872

    [削除済み]

    12/30

    こんにちは。
    「スバルインプレッサをつくる」vol.103「ボディとシャシーを接合する」に挑戦しております。
    接合する前に、ジャッキを組み立てるとありますが、先にパーツNo.「103-G」に「ネジXM」でネジ山を切ってから組み立て始めた方が良いです。
    また、「103-D」と「103-B」の接合部の「103-D」のバリは削った方が103-E及びGのネジ穴を合わせやすくなります。
    ボディーとシャシーの接合は年明けにチャレンジしたいと考えております。
    今年のお世話になりました。
    来年も宜しくお願い致します。
    良いお年を。IMG_0420.jpg


  4. 2019/01/10 17:42
    ID : 10893

    [削除済み]

    01/10

    アイデアありがとうございます!
    そちらの号まで進んだらトライしてみますね!!


  5. 2019/01/10 17:58
    ID : 10894

    [削除済み]

    01/10

    皆さん、こんにちは。#スバコミ事務局です。
    今回は、Vol.96「ボンネットエアインテークを取り付ける」とVol.97「ボンネット強化フレームを取り付ける」に挑戦しました。
    ①Vol.95で制作したボンネットエアインテークを取り付けます。
    IMG_4411.jpg

    ②ボンネット強化フレームをボンネットの裏側に固定します。
    IMG_4412.jpg

    今週はここまで。
    来週もよろしくおねがいします。

    <スバルの歴史を学ぶ STI⑧>

    ワークス「プロドライブ」
    プロドライブは1981年にアリ・バタネンのコ・ドライバーとしてWRCのチャンピオンに輝いたデビッド・リチャーズが1984年に設立したワークショップです。当時、歴史こそ浅かったですが、設立初年度には21戦の国際ラリーに参戦。7回の優勝を遂げていました。1987年にはBMWのテクニカルサプライヤーとして活躍。ツール・ド・コルスでは初優勝も獲得しましたが、1988年にBMWがWRCから撤退したため、プロドライブ側も新パートナーを求めていました。しかもプロドライブ側のターゲットは「4WDターボ車」。10万km世界速度記録を樹立したレガシィに高い関心があったことは言うまでもありません。

    サファリラリー終了後。久世はアッシュマンの勧めにしたがってイギリスのプロドライブに立ち寄りました。そしてリチャーズのリクエストに応えてすぐにレガシィを空輸。1ヶ月後にはプロドライブのテクニカル・ディレクター、デビッド・ラップワースからFAXで分析レポートが送られてきました。

    「レガシィをグループA仕様車にしたときのポテンシャルを分析したものでした。優れたパッケージングでグループBのプジョー205ターボ16と同じホイールベースであるとか、低重心だとか、剛性が高いとか、とにかく詳細なレポートで、”これなら勝てる”と書いてありました」

    とSTIの福江則夫氏は当時を語ります。
    こうしてSTIと富士重工業、プロドライブは技術提携を結び、WRC参戦へと歩みだしたのです。
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  6. 2019/01/16 16:58
    ID : 10950

    [削除済み]

    01/16
    6年前に[削除済み]によって編集されました

    皆さん、こんにちは。#スバコミ事務局です。
    今回は、Vol.98「ボンネットヒンジなどを取り付ける」に挑戦しました。
    ①カウルパネルまわりを組み立てます。
    ②①で組み立てたパーツをカウルパネルに取り付けます。
    ③ボンネットヒンジを取り付けます。
    IMG_4447.jpg

    ④ボンネットヒンジをボンネットに取り付けます。
    ⑤カウルパネルを車体取り付けます。
    IMG_4445.jpg

    ⑦完成。
    IMG_4448.jpg

    今週はここまで。
    来週もよろしくおねがいします。

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    <スバルの歴史を学ぶ STI⑨>
    名乗りあげた“無冠の帝王”。レガシィの可能性に高まる期待

    テクニカルパートナーの次に行わなければならなかったがドライバーの決定でした。予算の都合と活動実績を重ねることを重視したことから、トップドライバーの起用は考えられませんでした。
    そんなときに自ら名乗り出たドライバーがマルク・アレンでした。
    アレンはフィアットとランチアで通算19勝をマークしながらもタイトルの獲得経験がなく、“無冠の帝王”と呼ばれていました。
    勝てる車を求めていたアレンは、スバルに加入した理由を当時のインタビューで、
    「現時点でスバルがベストだと思えた。レガシィのスペックを見て、これはナンバーワンのラリーカーになると確信した」と答えています。プロドライブ同様にアレンもレガシィの可能性に惹かれたのでした。
    レガシィデビュー戦は1990年4月に行われるWRC第3戦のサファリラリーに決まりました。マシンの開発とラリーオペレーションは1980年からサファリラリーに参戦して結果を残しているサバルラリーチームジャパンが担当しました。
    一方、プロドライブ主導のスバルラリーチームヨーロッパの初戦は第5戦のアクロポリスとなり、ヨーロッパラウンドを中心に活動することになりました。
    (つづく)


  7. 2019/01/23 16:15
    ID : 10959

    [削除済み]

    01/23

    皆さん、こんにちは。#スバコミ事務局です。
    今回は、Vol.99「テールランプLEDを取り付ける」に挑戦しました。

    ①テールランプLEDを取り付けます。
    IMG_4503.jpg
    ②ボディパネルを取り付けます。
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    <スバルの歴史を学ぶ STI⑩>
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    初挑戦はサファリラリー!
    STIとレガシィによるWRC参戦は、1990年4月開催のサファリラリーに決まりました。6台のレガシィとスタッフ100名で臨んだSUBARUチームでしたが、想像以上のタフな環境に苦しめられます。しかし、グループNでの完走を果たすなど、基本性能の高さを示すことができました。

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    相次ぐハプニング
    ラリーは人間が行うスポーツ

    デビュー戦に投入したレガシィはエースのマルク・アレン、地元のイアン・ダンカン、ニュージーランドのポッサム・ボーン、2年連続2位のマイク・カーランド、そしてローカルドライバーのジム・ヘザー・ヘイズが駆る5台のグループA仕様車と、地元のスペシャリストであるパトリック・ジルのグループN(市販車無改造部門)仕様の6台体制でした。
    ちなみにスタッフ100名のうち日本人は38名、そのうち14名が全国のディーラーから派遣されたメカニックでした。現在のニュルブルクリンク24時間レースでもディーラーから優秀な人材が派遣されていますが、このサポート体制はこのときからスタートしました。

    サファリラリーは想像以上にタフなレースでした。
    しかも1990年は記録的な豪雨の年。ヌタヌタの路面を駆け抜けなければなりません。
    この過酷な環境に慣れないSUBARUチームはテスト走行中からもたついてしまいます。
    まずエースのアレンが、エンジンの調子が悪いと「ノーエンジン」、ブレーキが悪いと「ノーブレーキ」、ステアリングが悪いと「ノーステアリング」と極端な言葉を投げつけ、あるテストの途中でついに「フィンランドへ帰る」とふてくされてしまいます。これに対して小関監督は「帰れ!」と応じるとアレンはその場を去ってしまいました。チームは険悪なムードになりましたが、翌日になるとアレンは「すまなかった」と言ってテストに参加したそうです。
    「小関監督もよく帰ってきてくれたとアレンを出迎えました。ラリーはクルマだけでなく、人間が行なうスポーツなんだと思いました」と、その当時に会計を担当していたSTIの福江氏は語ります。
    (つづく)


  8. 2019/01/30 18:22
    ID : 10973

    [削除済み]

    01/30

    皆さん、こんにちは。#スバコミ事務局です。
    今回は、Vol.100,101「リアフェンダー(左)(右)」に挑戦しました。
    ①リアフェンダー(左)を車体外装フレームに取り付けます。
    ②リアフェンダー(右)にトランクベンチレーターを取り付けます。
    ③リアフェンダー(右)を車体外装フレームに取り付けます。
    IMG_4552.jpg
    今週はここまで。
    来週もよろしくおねがいします。

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    <スバルの歴史を学ぶ STI⑪>

    ラジエーターグリルの泥詰まりで
    オーバーヒートが続出。

    さまざまな経験を積み重ねたスバル陣営は1990年4月11日、初陣となるサファリラリーのスタートを出迎えました。注目のオープニングステージはナイロビの競馬場を舞台にしたわずか2.1kmのスーパーSS。雨の影響で路面が泥沼のようになるなか、レガシィをドライブするアレンがベストタイムをマークして幸先のよいスタートを切りました。
    期待値が上がります。
    当時、富士重工業で広報を担当していた眞下義明氏は「ヌタヌタの路面であまり速いという印象はなかったけれどサファリも初めてだったし、WRCのこともあまりよく知らなかったので、ひょっとしたら勝てるんじゃなすかと思いましたね」と当時を振り返り、「でも、あんなに壊れるとは思わなかった」と付け加えました。

    ph1_0123.JPG
    ここからSUBARUチームに悪夢が襲いかかります。
    オープニングステージを制して好タイムを連発していたアレンでしたが、ラジエターグリルが泥に覆われたことによるオーバーヒートでリタイア。ウォータースプラッシュでフロントを強打したボーン、オイルホースに水か入ってダンカンがエンジントラブルに見舞われるなど、セクター1に対して3台のレガシィが戦列を離れてしまったのです。さらにセクター2ではカークランドもオーバーヒートでリタイアするなど、予想外のハプニングが続出しました。

    ph2_0123.JPG
    当時のサファリラリーは6日間で4,000km以上走る耐久レースでした。加えて1990年の大会は各地で記録的な豪雨に見舞われ、ラリールートが寸断されるほどの険しいコンディションでした。
    59台の参加車で完走できたのはわずか10台に過ぎませんでしたが、そのなかにサファリ初参戦のレガシィが2台含まれていたのは特筆すべきことです。グループN仕様車で参戦したジルはクラス1位、総合8位でフィニッシュ。このジルのリザルトがスバルのサファリ史上初となるグループN完走となり、レガシィの基本性能の高さをアピールすることになりました。


  9. 2019/02/06 19:06
    ID : 11037

    [削除済み]

    02/06

    皆さん、こんにちは。#スバコミ事務局です。
    今回は、Vol.102「スペアタイヤを組み立てる」に挑戦しました。
    ①スペアタイヤを組み立てます。
    ②スペアタイヤを取り付けます。
    IMG_4622.jpg

    今週はここまで。
    来週もよろしくおねがいします。

    <スバルの歴史を学ぶ STI⑫>
    速さは見せるが、果たせぬ優勝
    サファリラリーで市販車無改造クラスを無事完走したレガシィ。しかしその後のWRCではトラブルによるリタイアがつづき、表彰台の中央には手が届きませんでした。

    ph5_01223.JPG
    初年度は4位が最高位。
    改良が続けられるレガシィ

    現在のWRCは全13戦(2018年)を戦ってチャンピオンが決まりますが、1990年当時はマニュファクチャラーに対して出場回数の義務はなく、SUBARUも任意に選んだ数戦のみに参戦していました。
    デビューイヤーの1990年はサファリラリーとアクロポリスラリーに参戦。サファリラリーを終えたSUBARU陣営はアクロポリスラリーに向けてマシン開発を行い、プロドライブによって製造されたレガシィのラリーカーは徹底的な軽量化が図られました。
    エンジンも強化されました。担当の山田剛正氏は、マルク・アレンが「ノーエンジン」という理由を知るために、テスト時に彼の運転する横に乗ります。そしてアレンが応答性を求めていることを知り、エンジンレスポンスを追求することが始まりました。
    アクロポリスラリーは「アクロ(悪路)を制するものは世界を制す」といわれるほどラフなグルベルコースでした。
    アレンの駆るレガシィはSS1でベストタイムをマークするなど幸先のよいスタートを切ります。しかしその後はエンジンを破損して大きく後退し、最終的には二戦連続リタイアを喫してしまいました。

    ph1_0123.JPG
    速さを見せながらもリタイアが続くA仕様のレガシィに結果が伴ってきたのはフィンランドの1000湖ラリーからでした。1000湖ラリーはエースドライバーのアレンが得意とする母国イベントで、WRCでも屈指の高速グラベルコースがある、エンジンパワーが必須の大会でした。
    エンジンを改良したレガシィは好タイムを連発して最高4位に入賞を果たします。「当時、他のメーカーに参戦予算を聞いたらうちの10倍近い金額でした。しかし、上空から見た限りでは、エンジンの出力は他のマシンと変わらないように見えました」と山田氏は語っています。
    そして1990年シーズ最終戦のRACラリーでは、アレンのレガシィがレグ1をTOPでフィニッシュ。2強といわれたトヨタとランチアを抑えてのタイムでしたが、続くレグ2でまさかのターボブローに見舞われてリタイアしてしまいました。
    SUBARUチームは一進一退を繰り返しながら確実に地力をつけていきました。


  10. 2019/02/14 20:14
    ID : 11045

    [削除済み]

    02/14
    6年前に[削除済み]によって編集されました

    皆さん、こんにちは。#スバコミ事務局です。
    今回はさかのぼり、Vol.83「デカールを貼り付ける」のBピラーインテリアトリムを取り付けました。デカールは最後の最後にとっておきます。
    ①左右のBピラーインテリアトリムを取り付けます。
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    今週はここまで。
    来週もよろしくおねがいします。

    <スバルの歴史を学ぶ STI⑬>
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    戦力アップのために
    エンジン制御システムを変更

    1991年シーズンのSUBARUチームは全14戦中9戦に参戦。第2戦のスウェーデンラリーでは、エースドライバーのアレンが3位に入賞し、参戦2戦目にして初の表彰台を獲得しました。
    ところがマシンの熟成が進んでスピードアップを果たすほどに、マシントラブルやアクシデントも増えていきました。なかでも度重なる改良でパワーアップしたエンジンは、信頼性の向上が急務となりました。
    そこでエンジン開発メンバーは。エンジンの制御システムを大幅に変更することを決定。これまでの市販車のシステムから競技用のシステムを新たに開発しました。
    「当時はトラブルが出るたびに対策を行っていたのでイベントごとにまったく違う仕様だった。その結果、コンロッドやピストン、ヘッドガスケットも進化した。なかでも制御システムを改良したのは大きかった。ターボラグの改善も始めた」
    と担当の山田剛正氏は語りました。のちにこのシステムはアンチラグシステムへと進化していきます。

    1992年になるとレガシィの速さに疑いを持つ者はいなくなりましたが、最終戦のRACラリーで2位入賞を果たすものの、SUBARUチームが勝利を手にすることはありませんでした。当時、富士重工は経営不振による経営再建の真っ只中で、WRCの撤退も実際に検討されていたようです。しかし、STI社長久世隆一郎氏は、WRCから戻ってくると真っ先に新宿本社へ出向いてWRCの成果を説明。富士重工業の社長川合勇氏はWRCの参戦継続を決断しました。
    そしてあの1993年を迎えることになります。


  11. 2019/02/20 20:07
    ID : 11049

    [削除済み]

    02/20

    皆さん、こんにちは。#スバコミ事務局です。
    今回は、Vol.103「ボディとシャシーを接合する」に挑戦しました。
    ①ジャッキを組み立てます。
    ②車体外装フレームとシャシーを接合します。
    ③フロントバンパーを取り付けます。
    ④車体外装フレームとシャシーを接合します。
    IMG_4692.jpg

    今週は長丁場でした。
    来週もよろしくおねがいします。

    <スバルの歴史を学ぶ STI⑭>
    スクリーンショット 2019-02-20 19.27.40.png

    背水の陣で挑んだ
    ニュージランドラリーで初優勝

    1991年、1992年とWRC優勝にあと一歩届かなかったSUBARUチーム。バブル景気が終わって自動車販売も厳しい状況を迎えるなか、このまま勝利できなかければWRC撤退の危機にも瀕していました。

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    レガシィでの勝利に
    1993年、SUBARU陣営はBAT(ブリティッシュ・アメリカン・タバコ)のスポンサードを受けることになり、レガシィもイエローのロゴをあしらった「555カラー」となりました。チームの名称もSWRTに変更され、555カラーはSWRTのイメージカラーとして定着していきます。
    1992年に続き1993年のSUBARUチームは、ドライバーにアリ・バタネンとコリン・マクレーを起用。しかし序盤戦は第2戦のスウェーデンラリーでマクレーが3位に入ったものの優勝戦線には絡めずにいました。また前年の10月にはインプレッサがデビューしており、SWRTでもWRCの次期主力モデルとしてインプレッサをベースとしたグループA仕様車の開発を開始していました。
    SUBARU陣営は第7戦のアルゼンチンラリーに不参加が決まっていたため、レガシィでの勝利にこだわっていた久世隆一郎STI社長にとって、残すチャンスは第8戦のニュージーランドと第10戦のオーストラリアのみとなっていました。(つづく)


  12. 2019/02/27 19:29
    ID : 11063

    [削除済み]

    02/27

    皆さん、こんにちは。#スバコミ事務局です。
    今回は、Vol.104「アンダーガードを取り付ける」に挑戦しました。

    ①アンダーガードを取り付けます。
    ②サイドスカートを取り付けます。
    ③ホイールにセンターキャップを取り付けます。
    IMG_4712.jpg

    本日はここまで。
    来週もよろしくおねがいします。

    <スバルの歴史を学ぶ STI⑮>

    背水の陣で挑んだ
    ニュージランドラリーで初優勝 その2

    第8戦のニュージーランドラリーには、トヨタ、ランチア、フォード、そしてSUBARUのワークスチームが集結。SWRTはバタネン、マクレーというレギュラードライバーに加え、地元ドライバーのポッサム・ボーンを加えた3台体制で臨んでいます。
    スクリーンショット 2019-02-27 19.28.01.png

    初日はバタネンがトップに立つものの、2日目のSS12でクラッシュしてリタイア。SUBARU陣営は早々に1台失うことになりました。しかし、バタネンがリタイアしたステージでベストタイムを叩き出して総合順位でもトップに躍り出たのが、スタートの日に25歳の誕生日を迎えたマクレーでした。
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    マクレーはその後、トヨタセリカターボ4WDを駆るディディエ・オリオールとバトルを繰り広げ、わずか3秒差の2位で2日目を終えました。最終日、オープニングでマクレーはトップに立つと、フォード・エスコートRSコスワースを駆るフランソワ・デルクールがオリオールに代わって2位に浮上。

    マクレーはトップを死守するものの、SS33でスーパーラップを刻んだデルクールが7秒差まで迫ります。しかし、続くSS34ではマクレーがスーパーラップを叩き出してその差を11秒に広げ、最終的には2位に27秒差をつけてマクレーがWRC初優勝を獲得しました。SUBARUもデビューから4年目にしてWRCで初優勝を飾りました。
    スクリーンショット 2019-02-27 19.27.30.png

    マクレーは表彰式のインタビューで、
    「レガシィは最高のマシンだ。この優勝をSUBARU関係者全員と応援してくれたすべてのファンに捧げたい」
    とコメントしました。


  13. 2019/03/06 18:48
    ID : 11069

    [削除済み]

    03/06

    皆さん、こんにちは。#スバコミ事務局です。
    今回は、Vol.105「スピーカーを取り付ける」に挑戦しました。
    ①リアディファレンシャルガードにスピーカーを取り付けます。
    ②リアディファレンシャルガードを車体に固定します。
    IMG_4731.jpg
    電気系統のテストをやる予定でしたが次週にまわします。
    来週もよろしくおねがいします。

    <スバルの歴史を学ぶ STI⑯>
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    インプレッサが登場
    高いポテンシャルを披露

    WRCで1勝を挙げたSWRTはさらなる飛躍を求めて、第9戦の1000湖ラリーにインプレッサを投入します。インプレッサはコンパクトなボディに熟成をきわめたEJ20型/2.0リッター・水平対向ターボエンジンと、信頼性の高い4WDシステムを詰め込んだスポーツモデルでした。
    インプレッサのデビュー戦はバタネンとマルク・アレンの地元フィンランド人ドライバーがドライビングを担当。アレンはSS1でいきなりクラッシュしてリタイアとなってしまいますが、バタネンは爆発的なスピードを披露してユハ・カンクネン、オリオールというトヨタの両雄との三つ巴バトルを繰り広げました。
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    ナイトステージのSS27では突然フロントガラスが曇るという予想外のハプニングが発生。ペースダウンしたことで2位に後退。バタネンは2位でフィニッシュしてSWRTの2勝目とインプレッサのデビュー戦での優勝はお預けとなりました。
    しかしインプレッサの走りを見たトヨタチームの福井敏雄氏は、
    「レガシィはボディが大きかったけれど、インプレッサは小さい上に低重心でバランスも良さそう。セリカよりも速いね」と語っています。
    インプレッサはわずか1戦でライバル陣営がマークするほどのパフォーマンスを見せつけました。
    スクリーンショット 2019-02-27 19.27.49.png


  14. 2019/03/13 18:20
    ID : 11086

    [削除済み]

    03/13

    皆さん、こんにちは。#スバコミ事務局です。
    今回は、Vol.106「リアバンパーを取り付ける」に挑戦しました。
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    ①リアバンパーを車体後部に取り付けます。
    ②ライセンスプレートを取り付けます。
    ③ネジHMをリアバンパーの切り欠きから差し込み、車体のネジ穴に締め込みます。
    来週もよろしくおねがいします。

    <スバルの歴史を学ぶ STI⑰>
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    ドライバーズ&マニュファクチュアラーズのダブルタイトルを獲得

    1993年のフィンランドラリーでWRC初優勝を飾り、1994年からはインプレッサによる本格参戦が始まりました。そして1995年シーズンには表彰台独占の栄冠を手にします。

    経験豊富なサインツが加入
    大幅な進化を遂げたマシン

    1993年までのSUBARUチームには任意に設定したイベントのみに参戦していましたが、タイトル獲得を目標に掲げて1994年シーズンからはフル参戦を決定。この目標に向けてドライバーにはコリン・マクレーを加えて、エースドライバーとしてスペイン出身のベテラン、カルロス・サインツを起用しました。
    サインツはトヨタチームのエースとして1990年、1992年のドライバーズチャンピオンに輝きましたが、1993年はトヨタがカストロールと契約したことになり、レプソルのサポートを受けていたサインツはプライベーターからのエントリーになりました。しかし、チームは力量不足は否めず苦戦を強いられましたが、サインツは新天地を求めてSWRTに移籍。抜群の開発能力を誇るサインツの加入はSWRTに大きな前進をもたらしました。
    スクリーンショット 2019-03-13 18.15.06.png

    当時STIで海外営業を担当していた福江則夫氏は「マクレーは天才なのでどんなクルマにも乗っても速く走れてしまうから開発ができませんでした。しかしサインツは努力家の人でセッティングがとても細かい。インプレッサはサインツが加入してから一気に進化した」と語っています。


  15. 2019/03/20 19:26
    ID : 11094

    [削除済み]

    03/20

    皆さん、こんにちは。#スバコミ事務局です。
    今回は、Vol.107「リアスポイラーを取り付ける」に挑戦しました。

    ◯車体後部のトランクリッドの上に、リアスポイラーを取り付けます。
    IMG_4792.jpg

    今週はここまで。
    来週もよろしくおねがいします。

    <スバルの歴史を学ぶ STI⑱>

    ドライバーズ&マニュファクチュアラーズのダブルタイトルを獲得 その2

    3勝を獲得した94年
    スクリーンショット 2019-03-20 19.24.36.png

    SWRTはタイヤのサプライヤーをミシュランからピレリにスイッチします。これはサインツのセッティング能力によってスムーズに対応。開幕戦のモンテカルロラリーにおいても安定した走りを披露し、サインツはSWRT移籍後の初イベントで3位入賞を果たしました。

    その後はマイナートラブルが続出して思うような結果が残せなかったSWRTでしたが、グループN仕様車で参戦したサファリラリーの最中にグループAマシンの改良を実施。センターデフの容量アップやエンジンの中低速トルクの強化を行い、第4戦のツール・ド・コルスでサインツは2位入賞を遂げました。
    スクリーンショット 2019-03-20 19.24.44.png

    こうした改良が功を奏してインプレッサは本来のパフォーマンスを取り戻し、第5戦のアクロポリスを迎えます。マクレーは失格となったが変わってトップに立ったサインツは、古巣であるトヨタ勢とのバトルを制してSWRT移籍後の初優勝とインプレッサに初優勝をもたらしました。
    スクリーンショット 2019-03-20 19.24.57.png

    その後は第7戦のニュージーランド、最終戦のRACラリーでマクレーが優勝。フル参戦1年目のSWRTは3勝を獲得しましたが、トヨタのダブルタイトルを阻むことはできませんでした。


  16. 2019/03/27 19:19
    ID : 11113

    [削除済み]

    03/27

    皆さん、こんにちは。#スバコミ事務局です。
    今回は、Vol.108「ワイパーとボンネットを取り付ける」に挑戦しました。

    ①左ワイパーを組み立てます。細かいパーツなので折ったりしないように取扱を注意します。
    ②右ワイパーを組み立てます。
    ③組み立てたワイパーを車体に取り付けます。
    ④ボンネットを取り付けます。
    IMG_4825.jpg

    今週はここまで。
    来週もよろしくおねがいします。

    <スバルの歴史を学ぶ STI⑲>

    ドライバーズ&マニュファクチュアラーズのダブルタイトルを獲得 その3

    6年目でつかんだ栄光
    SUBARUが表彰台を独占

    スクリーンショット 2019-03-27 19.14.34.png

    スウェーデンラリーでのエンジントラブル、ケガによるサインツの戦線離脱など、波乱に富んだ1995年シーズンがーでしたが、マクレーの成長などもあって第6戦のオーストラリア終了時点ではトヨタのユハ・カンクネンが62ポイントでトップに立ち、マクレーが55ポイント、ディディエ・オリオールが51ポイント、サインツは50ポイントとまれにみる混戦となっていました。
    STIの津田耕也氏は「1995年の途中あたりからサインツが“マクレーとエンジンが違う”と疑うようになってしまいました。その背景にあったのはサインツがスペイン出身で、マクレはプロドライブと同じイギリスという部分が大きかったと思います。チームの雰囲気はギスギスしていましたね」と振り返ります。
    社長の久世隆一郎氏はつねにサインツの側に立って彼の話に耳を傾けていました。
    「サインツを最後までチームにつなぎとめた影の功労者は久世さん」とSTIの福江氏は語ります。

    スクリーンショット 2019-03-27 19.15.06.png
    しかし、チームメイトでもありライバルでもある2人はついにスペインでぶつかります。
    序盤でサインツがトップに立つとマクレーは8秒差の2番手でフィニッシュ。マニュファクチャラーズタイトルを考慮したSWRTは両者のバトルを抑えるべく、そのままの順位のチームオーダーを出しました。しかしマクレーはこのオーダーに納得できず、レグ3に入るとチームオーダーに従ってペースを抑えたサインツに対して激しくプッシュし、SS21でトップに浮上。そのまま最終ステージとなるSS23を走り終えました。
    久世とプロドライブ代表のデビッド・リチャーズの説得を受けたマクレーは、最終TCでペナルティを受け、この結果、サインツがシーズン2勝目を飾ってマクレーは2位となりました。また3台目のインプレッサを駆るピエロ・リアッティが3位入賞を果たし、SWRTが表彰台を独占しました。
    トヨタのリストリクター違反で全ポイント剥奪と、最終戦+1年間の出場停止の裁定が下され、1995年のタイトルは最終戦のRACラリーに持ち越されます。マニュファクチャラーズタイトルを争うのは288ポイントの三菱と286ポイントのSUBARU。またドライバーズタイトルも70ポイントで並ぶサインツとマクレーと、ともに一騎打ちの構図となりました。
    このときのチームオーダーはマニュファクチャラーズタイトルを獲得することのみ。正々堂々と戦った2人は、結果としてマクレーが地元でシーズン2勝目を挙げ、イギリス人初のチャンピオンに輝きます。サインツは2位、リチャード・バーンズが3位に優勝を果たし、SUBARUは念願のマニュファクチャラーズタイトルを獲得することができました。1990年のWRCデビューから6年。ついにSUBARUは世界の頂点に立ちました。


  17. 2019/04/03 18:47
    ID : 11119

    [削除済み]

    04/03

    皆さん、こんにちは。#スバコミ事務局です。
    今回は、Vol.109「ルーフ周りを組み立てる」に挑戦しました。
    ①ルーフカメラを組み立て、ルーフに取り付けます。
    ②アンテナを取り付けます。
    IMG_4874.jpg

    今週はここまで。
    来週もよろしくおねがいします。

    <スバルの歴史を学ぶ STI⑳>

    インプレッサWRCの投入で黄金期を迎えたSUBARUチーム

    1995年にダブルタイトルを獲得したSWRT。1996年シーズンはコリン・マクレーをエースドライバーに据え、三菱ワークスで活躍していたケネス・エリクソンを起用。この年はトヨタが活動停止していたため、青のSUBARUと赤の三菱の対決が激化していました。
    三菱はランサーエボリューションのパフォーマンス向上で、開幕戦からトミ・マキネンが連勝を飾りました。シーズンを通してSUBARUと三菱のバトルが繰り広げられますが、5勝を挙げた三菱のマキネンがドライバーズタイトルを獲得。SUBARUは2年連続でマニュファクチャラーズタイトルを獲得して日本メーカーでタイトルを分け合いました。
    スクリーンショット 2019-04-03 18.32.01.png

    翌1997年もSUBARUはWRCに対して果敢に挑戦し、1996年最終戦にお披露目したWRカーを、初戦のモンテカルロ・ラリーからSUBARU初のWRカーであるインプレッサWRC97を投入しました。
    1997年にWRCは転換期を迎えていました。1987年以来、WRCのトップカテゴリーに定着していたグループA仕様車に加えて、この年から新規定として加えられたWRカーも出走可能となります。これによって駆動方式の変更や自然吸気エンジンモデルへのターボ装着が認められ、足回りの構造変更やエアロパーツによるエクステリアのアレンジなど大幅な改造もできるようになりました。
    スクリーンショット 2019-04-03 18.33.52.png

    近い将来、WRカーがグループA仕様車を凌駕すことは誰もが予想した流れでした。SUBARUは1990年の初挑戦から1996年までのあいだに、レガシィ、インプレッサの2モデルで10勝を獲得するなど、完成度の高いグループAモデルで栄華を極めていただけにWRカーへ移行することは勇気のある決断となりました。


  18. 2019/04/11 12:03
    ID : 11141

    [削除済み]

    04/11

    皆さん、こんにちは。#スバコミ事務局です。
    今回は、Vol.110「インプレッサWRC2003を完成させる」に挑戦しました。
    ①ヘルメットを組み立てます。接着剤が必要ですね。
    IMG_4896.jpg

    今週はここまで。
    完成しました!! と言いたいところですが、水転写デカールを残しています。
    来週がいよいよ完成です。

    <スバルの歴史を学ぶ STI㉑>
    スクリーンショット 2019-04-11 11.42.45.png
    2000年代のWRC
    SWRTはベテランと若手というカップリングでWRCを戦ってきました。2002年シーズンはベテランのリチャード・バーンズが移籍したため、若手のペター・ソルベルグとのカップリングにベテランドライバーが必要でした。4度のドライバーズチャンピオンに輝いたトミ・マキネンの獲得は、SWRTにとってはベストの選択でした。
    マキネン5度目のタイトル獲得とソルベルグの初優勝をターゲットに2002年シーズンが開幕しました。ところがSUBARUは度重なるトラブルで苦戦。最終戦のグレートブリテンラリーでソルベルグが初優勝し、シーズン前に掲げた目標のひとつを実現させるのが精一杯でした。
    スクリーンショット 2019-04-11 11.42.07.png

    2003年シーズンは、前年10月のインプレッサのモデルチェンジに伴い、開幕戦のモンテカルロに合わせて涙目型のインプレッサWRC2003を投入しました。このましんは外観だけでなく、エンジンターボや排気系を改良し、トルクアップを実現していました。SUBARUは序盤で苦戦したものの、中盤から盛り返します。ソルベルグがキプロスラリーやグレートブリテンラリーなどで4勝を挙げ、シトロエンのセバスチャン・ローブに1ポイント差ながらドライバーズタイトルを獲得しました。
    スクリーンショット 2019-04-11 12.02.05.png


  19. 2019/04/17 19:20
    ID : 11159

    [削除済み]

    04/17

    皆さん、こんにちは。#スバコミ事務局です。
    今回は、Vol.83で残していたデカール貼りに挑戦しました。
    ①大きいデカールは本当に気が抜けない作業です。事務局でも1枚破いてしまいました。さいわい予備があることと、Vol.110で再収録されているので安心ですね。
    IMG_4943.jpg
    IMG_4944.jpg

    ようやく完成いたしました。長い間お疲れ様でした。
    事務局でも担当者は4人代わりながら完成までこぎつけられました。

    来週からは延長号のサービスパーク編に入ります。
    よろしくお願いします。

    <スバルの歴史を学ぶ STI㉒>

    WRCチャレンジの歴史に幕を下ろす
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    2004年からはシトロエンのセバスチャン・ローブが黄金期を迎え、ドライバーズタイトルを連続して獲得します。一方、SWRTはエースのソルベルグがドライバーズタイトルで2004・2005年は2位、2006年は6位。2007年は5位、2008年は6位と低迷。WRCでの優勝からも2005年のグレートブリテンラリーを最後に遠ざかっていました。
    そして2008年終了後、当初2009年シーズンまで参戦予定でしたが、経営環境の急激な変化などによって2008年限りでWRCの活動を終了しました。
    スクリーンショット 2019-04-17 19.01.43.png

    「サスペンションのセッティングが煮詰めきれなくて勝つことはできなかったが、終盤に手ごたえを掴むことができた。2009年は勝てると思っていただけに残念だった」と当時の工藤一郎STI社長は胸中を明かしています。
    1990年のサファリラリー以来、19年間にわたってWRCを戦ってきたSUBARUは、3回のマニュファクチャラーズタイトルを獲得し、3人のチャンピオンを輩出しました。SUBARUは日本の自動車メーカーとして当時最多となる47勝という記録を残し、WRCチャレンジの歴史に幕を閉じたのです。


  20. 2019/04/26 17:31
    ID : 11171

    [削除済み]

    04/26

    皆さん、こんにちは。#スバコミ事務局です。
    今回は延長号で始まったサービスパークを組み立てるのですが、巻いてVol.111112を同時に進めます。
    IMG_4981.jpg
    ①ジャッキベースを組み立てます。
    ②サポートフレームを組み立てます。
    ③フロアジャッキを組み上げます。
    ジャッキの造りがリアルですね。
    今週はここまで。
    ありがとうございました。

    <スバルの歴史を学ぶ STI㉓>
    活躍の場をスーパーGT、そして“ニュル24耐”へ

    NurCar_rep_3.jpg
    STIはラリー競技だけでなくサーキット競技でも活躍しました。1989年にはF1にも挑戦。そしてもっとも力を注いだのがツーリングカーレースでした。
    国内のトップカテゴリーとなるスーパーGTのGT300クラスに、インプレッサ、レガシィ、そして現在はBRZで参戦。サーキットで培ったノウハウを市販車にフィードバックして開発に活かしています。
    STI_19GT1R_24.jpg
    かつてWRCと同様に市販車のポテンシャル向上を掲げ、STIが現在参戦しているのがニュルブルクリンク24時間耐久レースです。グリーン・モンスターの異名を持つドイツ・ニュルブルクリンクの約21kmの北コースと約5.1kmのグランプリコースを組み合わせた24時間走行するという過酷な耐久レースです。かつては“世界一の草レース”と呼ばれていましたが、現在はGT3マシンを各自動車メーカーが持ち込み、スプリントレースの様相を呈しています。
    18NBR_Galnew1.jpg
    この過酷なレースにSTIは2008年から参戦。2018年までに通算5回のクラス優勝を果たしました。またマシンの熟成だけでなく、全国からメカニックを選抜し、技術向上に努めています。こうしてサーキットで鍛えられた技術とノウハウが、STIのハイパフォーマンス市販車モデルであるSシリーズをはじめとしたパーツ開発に役立っているのです。


  21. 2019/05/08 18:41
    ID : 11183

    [削除済み]

    05/08

    皆さん、こんにちは。#スバコミ事務局です。
    今回はさらに巻きで、Vol.113, 114, 115を同時に進めます。
    IMG_5093.jpg
    ①トライアングルサポートで車体を持ち上げます。
    ②ツールケースを組み立てます。
    今週はサクサクと進みました。ここまで。
    ありがとうございました。

    <水平対向エンジンの進化①>

    フラット4エンジンの開発によって業界内で独自の地位を築いたSUBARU(当時、富士重工業)は、1970年代に独立技術で排出ガス対策を達成。1980年代にはエンジンの高性能化を図っていきます。また軽自動車用エンジンの進化やリッターカー用のエンジン開発にも取り組みました。
    スクリーンショット 2019-05-08 18.26.53.png
    ボアアップを重ねた
    EA型系エンジンの進化

    1966年5月に市場デビューを果たしたスバル1000のEA52型エンジンによって、「スバル=先進の水平対向エンジン」という図式をスタートさせたSUBARU。しかし大衆車かてごリーにおける販売シェアという点では、排出量で上回る他社に遅れを取っていました。
    img70s_0101.jpg
    この状況を打開しようとSUBARUの開発陣は水平対向エンジンの排気量拡大を計画します。1969年3月にはボアを4mm広げて排気量を100ccほど増大(1088cc)したEA61型ユニットを搭載したスバルff-1がデビュー。翌年6月にはボアをさらに6mm広げたEA62型(1267cc)を積んだff-1 1300G を発表します。またEA61型/EA62型ともにはいチューニング仕様のEA61S型/EA62S型も設定しました。
    img70s_0103.jpg
    1971年に入ると10月に入るとレオーネクーペ1400をリリース。若者層をメインターゲットに据えて内外装をスポーティに仕上げたレオーネには、EA63型の1361cユニットが積み込まれました。またff-1と同様にはいチューニングのS仕様(63S型)もラインナップに上がりました。


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