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SUBARUの歴史

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1989年9月 SUBARU、WRCへの挑戦を発表

この時期の世相
ベルリンの壁が崩壊
消費税が施行(3%)
日経平均株価が終値で38,915.87円。最高値を記録
モータースポーツで得たノウハウを量産車に活かすために 1989年9月、欧州でのレガシィ発売開始の同日に、1990年4月のサファリラリーを皮切りにレガシィで世界ラリー選手権に参戦することがSUBARUより発表されました。STIを介し、車両開発を英国のプロドライブ社、エンジン開発はSUBARUが担当することに。
1990年2月には具体的な参戦支援計画が決定。SUBARUが WRCに参戦する大きな目的は、参戦によって得られる技術的ノウハウを量産車へフィードバックすること。特に数あるモータースポーツカテゴリーの中でも、ラリーは量産車をベース車両として行なう競技であり、また世界のラリーフィールドは量産車の総合性能向上につながる技術的ノウハウを得るのに相応しいと考えたためでした。
世界への挑戦を開始(90~92年) 1990年シーズンは、4月のサファリラリーを皮切りに12戦中7戦に参戦。Rd.9 1000湖ラリーでマルク・アレン/イルカ・キビマキが、Rd.10 オーストラリアでポッサム・ボーン/ロジャー・フリースが、それぞれ総合4位に入賞。それ以外はサファリで6位、アクロポリスで8位、ニュージーランドで5位という戦績を残しました。
翌1991年は14戦中9戦にエントリー。Rd.2 スウェディッシュラリーでは、マルク・アレン/イルカ・キビマキが初の表彰台となる3位を獲得しました。
1992年シーズン、チームは新たなドライバーとしてベテランのアリ・バタネンと新鋭のコリン・マクレーを迎え、14戦中7戦にエントリー。この年初参戦のRd.2 スウェディッシュラリーでコリン・マクレー/ディレク・リンガーが、過去最高順位となる2位でゴール。最終戦のRd.14 RACラリーでも、アリ・バタネン/ブルーノ・ベルグランドが2位を獲得しました。
555カラーで初勝利(93年) 1993年シーズンは13戦中9戦にエントリー。この年からSUBARUの参戦車両のカラーリングはブルーにイエローで555と描かれた所謂「555カラー」になりました。Rd.2 スウェディッシュラリーで3位の表彰台を獲得したコリン・マクレーがRd.8 ラリーニュージーランドでついに初勝利。次のRd.9 1000湖ラリーでは、SUBARUはニューマシンのインプレッサ555で参戦したものの、その後のRd.10ラリーオーストラリアは再びレガシィで参戦。2台が出走し、それぞれ2位と6位となる結果を残しました。最終戦となるRd.13 RACラリーには2台のインプレッサが出走。コリン・マクレーはリタイアを喫するものの、アリ・バタネンが5位入賞。さらに、イギリス選手権をレガシィで戦っていた地元のリチャード・バーンズやアリスター・マクレーがレガシィでスポット参戦し、それぞれ7位と10位という結果を残しました。その年SUBARUはWRC参戦以来最高のマニュファクチャラーズランキング3位という結果を残し、翌年以降はインプレッサがSUBARUのWRCでの輝かしい歴史を切り拓いて行くこととなるのです。