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SUBARUの歴史

1958年3月3日 スバル360発表

この時期の世相
東京タワー竣工
長嶋茂雄巨人入団
『てんとう虫』の誕生 ミスタージャイアンツ、長嶋茂雄が豪快に4打席4三振デビューを飾り、東京タワー初公開と華やかな出来事がつづいた1958年。その年、スバル伝説の360は発表されました。戦後から立ち直りつつある当時の日本人にとって、まだまだ車は高価なものでした。そんな時代、スバル360は「てんとう虫」と呼ばれ、一般大衆が価格的に手に入れられるマイカーとして愛されました。しかしその開発には多くの課題が立ちふさがり、スバルのスタッフたちはその困難に直面することになります。設計を担った百瀬晋六氏を中心に、果敢に挑戦を続けたスバル360のストーリー。「スバルのクルマづくり」はここからスタートしたのです。
日本初の国民車を創る スバル360誕生に先立つこと4年前、日本は法改正により国産自動車の開発を活発化させ一般家庭にも普及させる国民車構想を打ち出します。国内の車メーカーに「360cc以下の国民車を誕生させよ」というメッセージを発信したのです。これに対しスバルは画期的な、「4人乗りセダンを軽自動車で実現させる」をコンセプトに開発をスタート。「国民の足をスバルから提供する」を目標に、一切妥協せず、欠点が見えたら改善を重ねることを信条としていた「ミスターエンドレス」百瀬晋六氏を中心に、果てのないチャレンジが始まります。
苦悩の先の光 まず大きな課題だったのが、「どうやって軽量化を図るのか」。当時は未舗装の道路が多く、砂利道でも快適に走れる工夫が必要でした。「大人が4人乗り、80kmを超えるスピードと快適な乗り心地を軽自動車で実現できるのか?」という苦悩の末、設計チームは航空機技術に着目します。スバルの前身である中島飛行機時代の技を採用。重いフレームを使わず、車体をそのまま骨格にして強度を生み出す「モノコックボディ」を採用することで、スバル360の軽量化に成功します。このひらめきこそが「てんとう虫」と呼ばれる愛らしいフォルムを生み出しました。
新坂平(群馬県前橋市富士見町赤城山)登りきれ エンジンの開発も困難を極めました。燃費が良く、急な坂を登れるためには今までにない新しいエンジンが必要だったのです。そういった課題をクリアする条件が揃っていた群馬県赤城山の「新坂平」という急な坂道に何度もトライし、最後は見事に疾走。「よし、これでいける」開発スタッフすべての祈りが込められたスバル360は運輸省の認定試験に挑みます。
箱根の坂から伝説の名車に 1958年冬真っ只中の2月、テストドライバーはスバル(富士重工業)社員の福島時雄氏。彼は少しでも速く走るために、車体についた泥を丁寧に落とし、寒い中つなぎの下は肌着一枚と、自分自身をも軽量化してテスト走行に臨みました。開発スタッフ全員の思いを乗せたスバル360は見事な走りを見せ、30分のタイムリミットを8分残しで快走、リッター26kmという素晴らしい燃費率を記録しました。そして1958年3月3日、当時富士重工業の本社であった東京丸の内でスバル360は華々しく発表され、それから12年以上にも渡りスタイルを変えながら、いまなお根強いファンの多い名車となりました。累計販売台数は約40万台、栄えある最初の購入者は、かの松下幸之助氏だったとのこと。百瀬晋六氏を中心に未知の開発に果敢に挑んだ、日本初の国民車は華々しく産声を上げたのです。